« 2010年10月31日 - 2010年11月6日 | トップページ | 2010年11月14日 - 2010年11月20日 »

2010年11月7日 - 2010年11月13日の記事

2010年9月の目標,その後……

Sh3g0343

■9月
○おはぎを食べよう。
○1~8月の目標のなかで達成できなかった物に再挑戦しよう。

■1月
・(年賀状を元に)住所録を作ろう。
 久しぶりに住所録の更新をしないと。数年に1度は住所録のチェックをしないと。

 9月は,母の葬儀があり,バタバタしたが近所の方がおはぎを買ってきてくれたので,それをいただいた。
 できなかった目標の再挑戦。ひょんなことから達成してしまった。
 母の葬儀を終えた後,喪中はがきを作成するにあたり,住所録をチェックした。よって,1月の目標を終えた。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Life]その7 最後の入院,病院での最期

 今年(2010年)9月,母親は最後の入院をした。
 "最後の"と冠をつけたのは,母親本人も「次に入院するときは,もう死ぬときだ」と覚悟を決めていたからだ。

 この"最後の"入院の前,6月に母親は入院をしている。
 微熱が続き,本来の病気以外の感染症の疑いがあったからだ。
 そのとき,母親は意識もはっきりし,自力での歩行もできた。会話も支障なし。ただ,熱だけが高かっただけだった。しかし,医者が「念のため入院しましょう」と言ったとき,母親は滅入ってしまった。
 「もう家には帰れないかもしれない。」
 そういうと,母親は落ち込んでいた。
 ところが,感染症防止のための"念のための入院"と分かった瞬間から,元気を取り戻し,
「短期の入院なんだから,あれこれ荷物を持ってくるな。」とか,
「暇だから携帯ラジオを持ってこい」だとか,退院の日何ぞは
「病院のお風呂に入ってから帰る」という始末。ホント現金な母親である。

 最後の入院の時,こんな余裕は母親にはなかった。食事もまともに取れず,意識ももうろうとしていた。
 普段は,薬を飲む時間帯や回数もしっかり管理していたが,それもままならなかった。

 入院した日,まだ何とか意識があったとき,振り絞る声で「実家に連絡して」と言った。
 おそらく,自分の命がいつまでか,実感したのだろう。
 それから,私が仕事帰りに病院に行っても,母親は眠っていた。ときおり,「う~ん,う~ん」とうなることはあっても,意識がはっきりとすることはほとんどなかった。

 9月15日,見舞いに行くと,いつものように眠っていた。時折,目が開いたようにも見えたが,またまぶたは閉じられた。それが何度か続くと,目が開き,私の顔を見つめた。はっと驚いたような表情になり,「○○~?」と私の名前を呼んだ,ように聞こえた。うんと私がうなずくと,また,母親はまぶたを閉じ,うつらうつらと眠ってしまった。

 翌日,病院に行くと,母親がうんうんうなっている。声にならない声,かと思ったが,よぉく聞くと「生きたい,生きたい」とも聞こえる。
 母親の母親,私の祖母が亡くなる直前,「むなしいねぇ」と言っていた,ということを,ふと思い出した。

 9月19日(日),13時過ぎに病院から電話があった。急変したので来て欲しい。
 取り急ぎ,病院へ向かったが,到着したとき,すでに,母親は亡くなっていた。
 急変してから亡くなるまで,時間があまりなかった,と看護師は言っていた。電話をもらってから,数分で亡くなったのだから,そうなのだな。

 土気色の顔。
 半開きの目。
 何だか,母が一回りも二回りも小さく見えた。

 葬儀から先は,もうバタバタ。手慣れない葬儀や相続などの仕切りをするのが非常に面倒だった。 

 さて,母親の話はこれくらいにして,次からは,平常営業に戻りましょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Life]その6 料理

 母親が退院した日,夕食は「刺身」だった。
 さすがに病院の食事では出ないものが食べたいというので,刺身に。

 親戚や近所の人々に言わせると,母親は「料理が上手」だったらしい。
 そういえば,私が小学生の頃,毎年夏休みは母親の実家に帰省していた。
 母親は実家に帰ると朝昼晩と食事を作っていた。
 「実家に帰っても,何も自宅にいるときと変わらない。」と母親はぼやいていたが,作った料理を親戚は皆「おいしいおいしい」と言って食べていた。

 私が大きくなり,実家に帰る機会が減ると,今度は料理を作って実家に送っていた。
 ベシャメルソースやビーフシチューなどを作ると,ジッパー付のポリ袋に入れ,冷凍。それらを段ボール箱に詰めて,クール宅配便で送っていた。ちょうどクール宅配便を各宅配業者が導入した時期と重なり,年に数回利用していた。
 食材をもらった親戚は,ベシャメルソースからクリームコロッケを作ったり,グラタンを作ったりとしていた。ビーフシチューは,市販のルーを入れる手前での冷凍・発送したので,食べるときに解凍・ルー入れ,といった具合で食べていたようだ。

 ビーフシチューで思い出したことが一つ。私のいとこ,母親の甥が実家から都内の大学へ進むというので一人暮らしを始めた。
 一人暮らしを始めたというので,母親は甥に
「何かあったらいつでもうちに来なさい。夕飯くらいごちそうするから。」
 と言っていた。
 4月。早速甥がやってきた。まだ大学に行ったとはいえ,友達も少なかったり,生活に慣れないので,母親の所に顔を出したのだろう。
「ビーフシチューを食べる?」
 と甥に尋ねた母親。甥は「いただきます。」と答えると,母親は冷凍庫の中からルーの入っていないビーフシチューを取り出した。何かの時に備え,母親は様々な料理の下ごしらえをし,冷凍庫の中に保存していた。そのためか,我が家の冷凍庫にはアイスクリームのはいる余地は全くなく,正直,アイスを食べる習慣はあまりなかった。
 ほどなくして,シチューができあがる。実は,甥,今までクリームシチューしか食べたことがなかった。そこへ「ビーフシチュー」が出てきた。白いシチューを想像していた甥にとって,茶色いシチューには相当ビックリしたようだ。生まれて初めて食べたビーフシチューの味はとてもおいしかったそうで。

 そんな料理好きの母親,退院してからは,できるだけ料理をするようになった。しかし,できることとできないことがあるので,父親をアシスタントにいろいろと作っていた。その料理は,入院する前と遜色ないできだった。

     *     *     *

 母親は1週間に3度,訪問介護を受けていた。特に普段の生活に支障はないが,さすがに風呂に入れるときは困る。私や父と言った男性が解除するのでは,さすがにちょっと……。

 で訪問介護でお風呂に入れてもらうことにした。ま,それ以外にも,家族だけが四六時中顔を合わせるより,週に何回かでも"他人"が顔を出すことにより,少しは刺激を与えた方がいいかと思って介護を受けることにした。


 余談だが,この介護によってどれだけ精神的に楽になったことか。ほんの短い時間でも"他人"が我が家に入ることにより外と繋がる安心感もあれば,精神的に若干の緊張感も生まれる。部屋を掃除しなくては,とか,お風呂をきれいにしなくては,シャンプーや石鹸も切らせてはいけない,という緊張感は,我が家にとってプラスに働いた,と思う。

 閑話休題。
 その訪問介護に来てくれる介護士,若い女性が来ると,母親はいろいろと料理の説明をしていった。風呂に入りながら,「ベシャメルソースはこう作る」とか,「圧力鍋を使えば,料理は短時間でできる」とか。
 若い女性の介護士さん,結婚してまだ子供を授かっていなかったり,お子さんが小さかったりと若い"奥さん"がよく我が家に来てくれた。その介護士さんにとって,母親は姑のような存在になっていったようだ。介護終了後,時間があると料理の作り方をメモしたり,母親の作った料理を試食したり,とまさに姑と嫁。母親に勧められた圧力鍋に感心した介護士さん,2人がそれを買い求めたほど。

 しかし,だんだんと自分で料理するほど体力が持たなくなった母親。料理を父親に任せ,ベッドに寝る時間が長くなった。
 そして,今年(2010年)9月,最後の入院をすることになった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Life]その5 入院

 入院した日,母親はベッドの上で人目をはばからず大きな声で泣いていた。
「兄貴に怒られる。」と言いながら。

 自分の病気を隠し続けたが,隠し通せるものではない。
 私も何年か前から,おかしいとは思っていた。
「病院へ行ったら?」
 と軽い気持ちで言ってみたこともある。

 しかし,そのときの母親の顔は,阿修羅(決して興福寺の阿修羅ではない)のような顔をして,私をにらみつけた。これは,私が言ってもダメだな。ただでさえ,自分がNoと思ったことは"てこ"でも動かない人間,私の一言では動かない。

 病院へかつぎ込まれ,最初,下された診断は「あと2,3ヶ月」。
 正直,この時点で私は覚悟を決めた。
 一方の父親は,弱気になり涙を流していた。

 ところが,運がいいのか,最初の薬がすこぶる効いた。副作用も,全くと言っていいほどなく,数日後には,(体は)元気になった。口の悪さ,気の強さはほとんど変わらず。
 入院してから一週間後,我が家の虎の子の諸々が入ったバッグを持ってこさせ,
「これが年金手帳。これが生命保険の証書。実印はこれ。金融機関の印鑑はこれ。この通帳には年金が振り込まれ,公共料金の引き落としはこれ。」
 次から次へと私に引き継ぎさせる。メモを取るだけで精一杯の私。この手の引き継ぎを入院早々に行ったというのは母親は腹をくくったのだろう。

 入院中,母親はベッドに寝ているのも暇だから,私にラジオを持ってこさせた。病室に備え付けのテレビはほとんど見ず,ラジオを聞いていた。
 昼間は,病院の廊下を歩きながら体力をつけていたようだ。わざとちょっと離れた公衆電話まで歩き,そこから自分の兄弟姉妹へ「私は元気だよう~」と電話をかけていた。
 その電話代がかさむが,運のいいことに母親はテレフォンカードを集めるのが趣味だった。昔集めたテレフォンカードを使って,あちこちへと電話した。

 約3ヶ月ほど経った頃。経過が良好だというので退院することになった。
 退院が決まった母親は,私に向かってこんなことを言ったのだった。

「何か食べたいものはないかい?作ってあげるよ。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Life]その4 口癖

 中学高校と(私が)所謂反抗期を迎えている頃,我が家でもご多分に漏れず,親子げんかがひっきりなしにあった。
 母親は自分の思うとおりに育てようとするし。私は自分の考えで生きようとする。そこに,ギャップが生じるのである。

 その頃の母親の口癖と言えば,
「親の世話になっているうちは,親の言うことを聞きなさい。」
 である。
 今思えば,こういう考え危ないよなぁ。
「親の世話になっているうちは,親の言うことを聞きなさい。」
 が正しいならば,
「親の世話になっているうちは,親が『泥棒してこい』と言ったら,泥棒する」だもんなぁ。

 ただ,大学で児童虐待に関する授業を習っていたとき,担当教授がこんな話をしていた。昔のこと何で記憶があやふやだが。
「どれだけ虐待されても,子供は親の愛情が欲しくて親の言うことを聞く。例え,親から暴力を受けても,『転んでぶつけました。』と言い訳し,親をかばうことがある,そうだ。」

 私は,「親の世話になっているうちは,親の言うことを聞きなさい。」には,今でも反対の立場に立っているから,親をかばうことはしないけれど。

 閑話休題。

 母親の口癖は,時と共に変わっていった。
 仕事するようになったら,
「自分で生活できるようになったんだから,一人暮らしをしなさい。早くこの家を出て行け。」
 になった。
 普通に考えれば,この台詞は,真っ当だ。しかし,私は家を出ることはなかった。
 なぜか。親を二人だけにすることに不安だからだ。

 母親は,前にも書いたが,勝ち気な性格。自分がこうと決めたら,てこでも動かない。自分が悪いと思っても,頭を下げることをしない。そんな母親と父親との二人だけになったらどうなることやら。
 人間,一人なら寂しい。二人なら喧嘩になる。三人なら何とかやっていける。昔,小学校の国語の教科書に載っていた駅員の話。そのことが,どうも,頭の中にあったので,家を出る気になれなかった。

 でもね。
「早くこの家を出て行け。」
 と,ことあるごとに言われるのは,厳しいよ。今でこそ,言われなくなって,それはそれで寂しいけれど,何かにつけて,母親が怒り出すと「早くこの家を出て行け。」と言われるのは,どうもね。

 しかし,その台詞も,母親が病気をするようになってから言わなくなった。入院する前くらいかなぁ。病気を隠しているが,状態が良くない頃から。「出て行け」とは言わなくなった。

 病気で入院してから,「親の言うことを聞け」や「出て行け」は言わなくなり,別の台詞が口癖になった。
 今までの勝ち気な性格からは考えつかない言葉。
 本人曰く,言いたくても言えなくなるときが,いつか来るから,今のうちに言うんだ,とのこと。

 その言葉は「ありがとう。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Life]その3 NHK放送センター

 母親の強気な性格は,昔から変わらなかった。

 小学生の頃,近所の友達とNHK放送センターに行くことになった。
 引率するのは母親。子供は私を含めて4人ほど。しかし,私以外はNHK放送センターに行ったことがなかった。

 渋谷駅に到着。母親は,付いてきなさいとばかりに,渋谷の雑踏を歩いていく。しかし,方向が違う
公園通りではなく,今の文化村通りを歩いていく。当然行き着く先は,東急百貨店渋谷本店。NHK放送センターは見えてこない。

 私は,ハチ公口(当時はハチ公口ではなく,北口と言っていたはず)から,知らぬ方向へ母親が歩いていくので,「違う!違う!」と連呼する。気の強い母親は私の言うことを聞かない。行く方向にNHKは見えてこない。後ろからは息子が「この道じゃない!」と,雑踏の中,叫んでいる。終いには,切れてしまい,私に向かって,
 「うるさい子は一人で行きなさい!」
 と言う始末。

 何度も何度も道が違う,私は以前NHK放送センターに行ったことがある,母親は言った庫はないではないか,とまくしたて,ようやく,私の言うことを聞いた。
 それでも,母親は,私に向かって,
 「だったら,あんたの言う道で連れて行きなさいよ。」
 と高飛車に言ってくる。

 私は,当時,渋谷には明るくなかったので,東急百貨店渋谷本店から,一旦,ハチ公前交差点まで戻り,そこから,再び,公園通りからNHK放送センターへと向かい,ようやく到着した。

 しかし,私には謝罪は一切なく,
 「あら,公園通りを歩くんだったの。勘違いしてたわ。」
 で終わり。

 これに似たようなことは,何度もあったが,母親に話してもたいてい忘れている。
 それこそ,母親が入院してから,似たような出来事を話しても,忘れている,と言っていた。
 

 いまでこそ,学校などにキレる親が多いとは言っていたが,私は30年以上前から相手にしていたのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

[Life]その2 お年玉とTVゲーム

 毎年,お年玉をもらっていた。私の小さい頃の話。
 幼稚園の頃から中学生くらいまで,私はもらったお年玉,それも全額を母親に預けていた。
 特にどうというわけではないが,何もためらいもなく,母親に渡していた。

 正月。友人たちは,お年玉をもらうと,それでいろいろな物を買っていた。プラモデル,ラジコン,TVゲーム等々。
 私は,手元にお金がないので,そんなものとは無縁の生活。特にTVゲームなんか本当に無縁だった。
 そのためか,我が家の敷居をまたいだTVゲームは1台しかない。それも,ファミコンが世の中を席巻しだしたとき,任天堂のテニスゲーム(あの黒い縦棒が上下に動くいて,ボールに見立てたドットが左右を行ったり来たりするもの)を,母親がどこからかもらってきたのだ。

 でも,これって,一人じゃできないじゃん。私が二つのコントロールを持って,テニスゲームしても全然面白くない。一ヶ月もしないうちに,そのTVゲームは納戸にしまわれた……。

 で,お年玉はどこへ行ったのか……?

 母親が入院して,初めて知った。
 私の名義で通帳を作り,そこに貯金していてくれた。たまに,家計が苦しく,お金が足りないときは借りたときもあったようだが,後日返してくれたようだ。
 ある程度お金が貯まったら,定期預金にして,少しでも増えるようにしてくれた。

 そんな話を母親が入院して,病室で聞いた。通帳には,そこそこまとまったお金があった。でも,正直,私はそのお金,中学生や高校生の頃欲しかったなぁ。そうすれば,いろいろと我慢せず,友人たちと遊びに行けたり,それこそ,任天堂ゲームウォッチが買えたりしたはずなのに。

 母親が亡くなった今,その通帳を渡されても,めったやたらには使えないじゃん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年10月31日 - 2010年11月6日 | トップページ | 2010年11月14日 - 2010年11月20日 »